3.11)その時何してた?
その時は、問い合わせや事務処理するために新大阪の事務所に戻っていた。
数名東京へ出張していたので、事務所は二人だけ。
気づいたのは、ブラインドがやたらと窓に当たってカチャカチャいっていたから。
そのあと、ゆっくりとした揺れが数分続いたと思う。
あまりに長かったので、一応自主避難。
電気も水道も止まらなかったですね<大阪震度3
戻ってもネットもメールもつながらない。
携帯に飛んできた、防災メールで震度7を知る
サーバーのある東京も6とか5とか。
停電したんだろうなーと思って、備品のラジオをつけてNHKをつけっぱなしに。
ネットがつながらないと仕事にならんし、つながっても向こうは混乱しているだろうから、問い合わせ所じゃないだろうし。
ラジオで情報を取りながら、会津若松の実家に電話。当然規制でつながらない。
実は3/1に、電話代を考えて、実家に持たせようとしてPHSを買った直後の事だったので、かなり後悔しましたよ。
実家付近にすむ姉と妹はメールでなんとか連絡着いた。それでも1〜2時間かかってるけど。
他には、塩竈にいる知人の安否がわからなくて、数日やきもきしていました。
定時で退社して、新大阪駅で足止めされているごろうさんを拾って帰宅。
あとは深夜まで延々とNHKをつけっぱなしにしてたなぁ。
実家には夜9時頃連絡着いた。ちょっと停電しただけだったと。家は無事で何よりだったけど。
実家は無事だったけど、周辺では道路亀裂入ったり、ガソリンが来なかったりと二週間〜一ヶ月は何かとありました。
GWに実家帰ったときでも、親戚の家がある団地の地割れが補修終わってなかったもんなぁ…お盆の時でも終わってなかったし。
直接被災した訳でもなし、福島県でも会津地方なので空間放射線量も低かったので大きな被害は幸にしてなかったので、これくらいにしておきますが、自分の出来ることで、ほそぼそとでも支援はしていきたいですね。
ふぐすまは、自分の生まれて育った土地ですから。
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